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暫定Cok*日記
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最近は、なんとなくそういうテーマが自分の中にはちょっとあります。
もちろん、どっちかが「良」でどっちかが「否」というようなものじゃなくて、どういう風に違うのかなとか、どういう風にそれが交わって、人が成り立って、形成していくのかなとか、そういうの。
生活の中で、日常の中でそれを実践したり、考えたりなんてことはきっとないんだけれど、テーマとしてそういうのが根底にひっかかってるんだろうな、と思うんですよね。

強さとか弱さは、男も女も関係なく人間てもの全部に当てはまると思います。

なんていうか、都合良くこんなとこで最近ハマってるギリシャ神話を持ち出してしまえば、人間の姿形を作ったのはプロメテウス(先に考える人)なんですよね。プロメテウスは人間を神と同じ姿に作ったの。そのとき、プロメテウスは人間だけじゃなくて動物も(確か、たぶん)作ったのね。手先が器用だった彼は、そういう役割だった。そして、そんな「器」たちに能力を与えたのがエピメテウス(後から考える人)だったんだけど、エピメテウスってば行き当たりばったりで、鋭い牙だとか大空を飛ぶための羽だとか、そういうありとあらゆる生きていく上で「強み」になる能力を他の動物たちにみんな与えちゃったのね。そしたら、人間には与える能力がなくなっちゃって(笑)。しょうがないから、プロメテウスは人間に「火」を与えたんです。ゼウスには「人間に火は与えるな」って言われたのに、わざわざ朝日から「火」を盗んで、人間に分け与えた。

そういうのをわざと踏まえてみて、人間ってつまり他の動物のように(絶対的ではないにしろ)「生きていく上での具体的な強みを持たない者」なんですよね。言い換えれば「自身の存在は弱い」とも言えるかもしれない。だけどこの辺りはそう、コトバの使い方次第っていうか、いくらでも言い換える事ができるし、それはその人の解釈の仕方次第だなとも思う。

弱いんだよね、人間ってつまり。だけど、弱さが弱さのみに留まるかというとそれはまた別な問題だったりするじゃない。弱いって事は単なる事実であって、具体的現状であって、それは物事の出発点たる基本設定でしかないわけでしょう。だからどうした(So What?)ってやつですよね。

例えば、鳥が羽を失うとその鼻先に突きつけられるのは現実的な「死」だったりする。飛べない鳥は、自然界では「翼が折れても歩けるなら道はあるはず(by サクリファイス)」ってな具合には行かないのが実際の現実だよね。それって「強み」がある分の代償なんじゃないかな、とか逆に思う。強みっていうのは、逆に言えば「弱点」だもの。鋭い爪と牙を持たない獣が決して恐ろしくはないように、強さっていうのは時に弱さであって、同じように「これといった強みを持たない」人間って存在は、最初から強みがない事が、時には強みにも成りうるってことなんじゃないかな。

自分の弱みをいかにして強みに換えるかは自分次第であって、だから初期装備である「弱さ」を嘆くのは少し気が早い。他者の強みは弱点でもあり、自分の弱みは強みであると解釈して現状打破を考えるのが、論理的かつ建設的思考のように思ったりもします。まぁ、自分がどうかと言えばまるで出来ちゃいないので机上の空論とでも申せましょうか(笑)。なんだか格闘技マンガのような思考ですな。

いやはやそれはそれとして、全く上記な事は横においといて、私は強い人が好きです。最初から弱音吐いてるような人は面倒くさいと思います。偉そうな事ばっかり言って、自分は「やれば出来る人間なんだ」とか言いながら頑張っている人を「バカバカしい」と批判して、自分はいざってやる前から「あんなの出来るわけないよ。ムリだよ。やっちゃう方がバカだよ」とか言うてる人を見ると、「寝言は布団の中で!」とイライラっとします。

でも、強さに傲慢な人は見ているとハラハラして気が気じゃないので少し怖いです。だんだん、見てるのが痛々しくなってきます。上述の通り、やっぱり私は基本的に初期装備で人間は「弱い」ものだと思ってる人間なので、そういう価値観からすれば「己の強さに傲慢」である態度は、例えそのハッタリがどこまでも続くとしても、決してそれが永遠とは思えないから。栄枯盛衰、いつかは枯れて衰えてしまえば、そのハッタリも長くは続かない。傲慢な態度は、他者に見捨てられてしまえばそこが強さの行き止まりでしかないんだもの。そのときに傷つく痛みを思うと私にはそれが怖くてしょうがない。怖いというか、痛いというか、ね。

前に、わたしはエンターテイメント性とストイックさの比率で6:4から7:3くらいが心地良いって書いたのだけれど、正直その比率はどっちがエンターテイメント性でもストイックでもかまわない。ただ、その二つを仮に対と考えて、どちらかをその比率分だけ意識できて持っていればいいんじゃないかって思うの。とりあえずは安心できるっていうか。これって私の個人的価値観でしかないんだけれど。

強さは時にエンターテイメント性に近いかなって思うのね。強さって何かって、他者に対して持つものだと思うから。自分以外に向かって見せる自分の事だと思うの。だからその強さは決して本物でなくていいって思うの。エンターテイメントってフィクションでも別にいいじゃない。他者に対する「客観的自分」だと解釈してもいい。でもそれを100%に比率持っていくと、やっぱりそれも「フィクションでしかない」という事になる。もろく薄っぺらいフィクションはすぐに飽きられてしまう。なぜってそれは「フィクションでしかない」んだものね。あぁ、少なくとも私は、ね?

そこに、3割なり4割の「弱さ」とも言い換えられるストイックさ、これは他者ではなく自分自身に問いかける部分っていうか、自分との闘いであったり、自分への回避部分であったり、100%の嘘にしないための現実であったりするんじゃないかと思うの。そういうのがあることで、私は安心感を得るんだな。きっと「いっそ100%のフィクションの方がいい」っていう価値観とか、考え方ってあると思う。それはそれで間違ってないと思うけど、わたしはそれがいつか崩壊するときを考える(えらくネガティブ思考ですな)と、やりきれないから落ち着かないわけです(笑)。

弱さを持った強さ、っていうのが個人的には一番心地よくて、一番信頼できて、安心できて好きなの。強さを含んだ弱さだとちょっと頼りない・・・かな(笑)。でも自分はどっちかというとそっちに近いのかもしれないけれど、dからこそ「弱さを持った強さ」っていうのには憧れがあるし、そうなりたいなって思うね。

自分にとって、例えばヒムチってそういう存在ではあるかなと思う。もしかすると本人は「100%強みですv」ってニッコリ言っちゃうかもしれないけれど、私は勝手にそれを「(そうありたいんですv)」な行間で読んじゃうとこがあって、間違った解釈の第一任者候補なんだけれども。そして、例えば万が一で私の思うことが真実であったとして、そう指摘されることをきっと本人は望んでない(だからこそ「強さ」を100%だと言いたいのだろうし)とも思うので、どっちに転んでも自分の解釈は妄想の向こう側に放置されちゃうわけですけれど(笑)。

だけど年々、歳を重ねていく度にその「弱さ」みたいなのを、隠そうとか見せまいとか、100%のフィクションではなく、もっと素の自分に近づいていってるような、そういう雰囲気をなんとなく弱々しい電波(なのでまるでアテにならない)で感じている自分だったりもします。だから「臆病者にはなりたくない」って言えるんじゃないのかな、とか(ホラ、こういうのが勝手な解釈って言うんだ!)。臆病者だから、だから「なりたくない」って足掻くから、その先には今までとは違う闘いや世界が見えてくるような・・・気がするんですね。

でもバランスよく自分の弱さと強さを表現するのってすごく難しい。具体的に具体的にって、どうすればいいのって思うものね。結局、そういうのって結果論でしか語れないのがすごく自分としては力及ばずだと思うんだ。強さも弱さも、結局は過ぎたるは及ばざるがごとしっていうか、手の届かない木の上になったリンゴみたいなもんなんだよな・・・。落ちてきて初めて食べられるけれど、そん時にはもう腐ってるかもしれないし、鳥が突いた後かもしれない。こうやってムダに駄文を書き連ねてみても、単純な答えはまだ見つからないものだし。

こういうときに聞く「ダウンタウンシャッフル」は妙に心にクルものだし。
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